大隈重信と福沢諭吉は、早稲田大学と慶應義塾大学の創設者としても知られていますが、二人は生前付き合いがあったのでしょうか?
面識はあったようですが、どんな付き合いをしていたのか気になっている人が多いようです。
大隈重信と福沢諭吉は生前どういう付き合いをしていたのか?
どうやって出会ったのか?また盟友になったという話もありますが、そこに至るまでに何があったのか?
この記事では、大隈重信と福沢諭吉の生前の付き合いについて、気になることをまとめています。
【大隈重信と福沢諭吉】付き合いはあった?
大隈重信と福沢諭吉は生前付き合いはあったのかというと・・・
ありました。
大隈重信と福沢諭吉は互いに面識があったということは知られていられていますが、どの程度の付き合いをしていたのかもみていきましょう。
【大隈重信と福沢諭吉】出会いは?
大隈重信と福沢諭吉の初めての出会いはいつだったのかというと・・・
【出会い】明治6年(1873年)
二人は明治6年(1873年)に初めて出会ったといわれています。
しかし、出会う前はお互いに好印象を持っていませんでした。
大隈重信は福沢諭吉を「生意気な学者」と思っており、福沢諭吉は大隈重信を「生意気な政治家」と思っていました。
しかし、雑誌の編集者が仲介して酒席を設けたところ、二人は意気投合してそこから親友になったんだそうです。
【大隈重信と福沢諭吉】盟友となるまでのエピソードは?
大隈重信と福沢諭吉は生涯にわたって盟友であり続けました。
福沢諭吉は大隈重信に学校の設立を勧め、東京専門学校(現在の早稲田大学)の開校式に祝辞を述べました。
大隈重信は福沢諭吉の著作を読んで感銘を受け、政治においても参考にしました。
二人は手紙のやりとりも頻繁に行い、互いに励まし合いました。
【大隈重信と福沢諭吉】別れはいつ?
大隈重信と福沢諭吉は最後は死別してしまいます。
福沢諭吉は明治28年(1895年)に66歳で亡くなりました。
大隈重信はその訃報に深く悲しみ、葬儀に参列しました。
福沢諭吉の遺言により遺族は供花などを断っていましたが、大隈重信からの供花だけは丁重に受け取りました。
大隈重信はその後も福沢諭吉の墓参りを欠かさず、明治45年(1912年)に74歳で亡くなるまで、福沢諭吉の思想を尊重しました。
以上が、大隈重信と福沢諭吉の生前のかかわりについてわかっていることのまとめです。